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きになるブログ2 - Hatena Blog

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山川直人 「一杯の珈琲から」

山川直人 「一杯の珈琲から」 http://ift.tt/1kBM8uO

 「自分はどのようなものなのか」という問題は、アイデンティティの維持において繰り返し自問されるものであります。そしてその問いに答えるために、自己は他者との比較によって認識されるという前提において、「他者はどのようなものなのか」を知りたくなるのも、至極真っ当な疑問であると言えます。

 

 急に何をクソ面倒臭いことを言い出したのかというと、つまり私は「写真屋カフカ」を読み終え、非常に満足し、さて世の中の人達はどう思っているのかな、とネット上のレビューを覗いてみたわけなのです。そこで私は大変な事実を知ることになりました。なんと新刊がもう一冊出ているではありませんか。それもやっぱり2か月前に。オレなにやってんのよ、と半ば呆れながら、そして続けて新作を読める嬉しさを噛みしめつつ、再び私は書店へ走ったのでしたのだった。

 ということで、今回は同じく山川直人氏の新作「一杯の珈琲から」をご紹介しましょう。

 

 山川作品において、コーヒーあるいは喫茶店は頻繁に用いられるモチーフです。代表作「コーヒーもう一杯」でもコーヒーが必ず登場し、それを巡る人々の物語でありました。ここで重要なのは「コーヒーの味についての話」ではないということで、コーヒーはあくまでも物語上の小道具であり、さらに言えば物語の進行を担う狂言回しなのです。つまり、あるドラマが繰り広げられたところにコーヒーがあったわけで、大げさに言えば「コーヒーが見た物語」なのかもしれません。

 そして本作「一杯の珈琲から」では喫茶店を中心に据え、やはりそれを巡る人々の物語を綴っているのです。ここでも同様に「喫茶店の良し悪しについての話」ではなく、喫茶店はあくまでも狂言回しであるのです。ですから「ある物を巡る物語」という意味では、「コーヒーもう一杯」と構造は同じといえるでしょう。しかし「コーヒーもう一杯」が単に童話的あるいは寓話的な内容であったのに対し、「一杯の珈琲から」で語られる物語は同様に童話的、寓話的でありながら、もう一歩踏み込んだ内容になっています。

 

 童話や寓話において重要視されるのは教訓や風刺であり、ですから登場人物の人間像は単純なステレオタイプ的に表されます。何故なら人物像をぼやかした方が物語に示される寓意が強調されるからです。実際「コーヒーもう一杯」に登場する人物は「コーヒーが好き+少々の特徴」が示されるに留められていました。その結果、読者の視線は物語そのものにフォーカスされ、物語の持つ安堵感あるいは不安感が鮮明に浮き出ることになったように思えます。対して「一杯の珈琲から」は物語こそ童話性や寓意性を含んだ、これまで同様に提示してきますが、しかし登場する人物達は、それぞれの生活、思想、悩みを抱え、それらが明確に示されています。つまり「人間性」が加わっているのです。そしてそれらは上手く噛み合い、奥深い作品世界を形成しています。

 しかし本来、これら2つの要素を上手く融合し、昇華することは非常に困難です。人物のキャラクター性を売れば物語性をスポイルして定型的な内容になり、逆に物語性を売れば人物のキャラクターを単純化した類型的なものになりがちなのです。実際、多くの人気作品はこのいずれかの形式であり、両立している作品は極めて稀だと思います。

 では何故、本作は物語性と人間性を上手く融合させ、昇華し得たのでしょうか?それは氏の特徴である「絵柄」にあると思います。そのことに触れる上で、まず、「コーヒーもう一杯」の手法から考えてみたいと思います。

 

 「コーヒーもう一杯」は先にも述べたように、キャラクターよりも物語の童話性や寓話性に重きを置いた作品であると言えます。この作品世界を成立させる上で不可欠であったのが、氏の特徴的な絵柄であったと思います。氏の絵柄は決して写実的ではなく、徹底した手書きであることも手伝って、ある種究極の漫画的表現です。つまり徹底的に手書きであるが故に徹底的にディフォルメされた絵柄だと言えます。そしてディフォルメとは省略であり、それは記号化と言えるでしょう。記号とは最低限の意味だけを持つものです。つまり氏の絵柄は極めて漫画的、つまり記号的であるが故に、キャラクターはある意味「駒」に徹することができ、読者を物語そのもの注視させることが出来たというわけです。

 しかし記号化にはもう一つの機能があると考えます。すなわち「単純化されたが故に、読み手が記述されていない情報を補完する余地がある」という機能です。例えば「一時停止」の交通標識を例に挙げてみましょう。その標識には「ここで一旦止まれ」という意味しか含まれていません。しかしそれを見たドライバーは「交通量が多いのだろうか」とか「通学路になっているのだろうか」とか、その場所について様々な背景を思い巡らせるでしょう。つまり「ここで一旦止まれ」以上の情報を、ドライバーが補完したということなのです。

 この機能により、読者は単なる記号であったキャラクターに各々感情移入をし、さらに物語世界に没入することになったと思われます。つまり当初、読者は「キャラクターが記号であるが故に作品世界に集中」していますが、読み進めるにつれて「キャラクターが記号であるが故の自由な感情移入」することになり、結果、より物語を深く味わうことが出来たと思われます。

 このように「コーヒーもう一杯」はキャラクターを記号化することで、物語は作者が作り、キャラクターの記述は読者に委ねた作品であるということが出来ます。読者は物語に沿った、自分にとって相応しい人間性を持ったキャラクターを読むことになり、作者の提示した童話的効果を十分に享受出来たといえると思います。この時点で既に、氏はある程度は「物語性と人間性を上手く融合させ、昇華し得た」と言えるでしょう。しかしこの時の「読者が補完した人間性」が氏の意図したものであるとは限らないことは言うまでもありません。かといって、あまりにも背景を説明しすぎてしまうと、物語の流れを断ち切ってしまったり、読者に窮屈さを感じさせてしまう恐れもありました。

 

 そして本作「一杯の珈琲から」では記号であったキャラクターに明確な背景を持たせたのです。これこそまさに「読者に窮屈さを感じさせてしまう」もので「読者による補完」の入る余地はなくなったかのように思えます。事実、作者が何らかの設定を提示すれば、読者はその範囲でのみ補完することしか出来ません。しかし、本作における作者の設定はさりげなく示され、またキャラクターの人格も単純な記述に留まっています。すなわち氏は「背景や人格も含めてキャラクターを記号化」したのです。ですから読者はキャラクターの背景が提示されますが、それはあくまでも記号なので補完の余地があり、しかしある程度作者の意図を踏まえたものになります。ところが読者はそのことを感じることはないので、あたかも自由に補完したように感じてしまうのです。

 このことは既刊「澄江堂主人」において芥川龍之介を描いた際に認められています。氏の描いた芥川龍之介は、実際の芥川龍之介の特徴をよく掴んだ絵柄で表現されていますが、しかしやはりディフォルメされた「漫画的芥川龍之介」でした。つまり氏は芥川龍之介の人格を丸ごと記号化したのです。これにより、読者は芥川龍之介の背景と人格を簡略化された形でを提示されることになります。しかもそれは記号ですから、芥川龍之介に対する自分の解釈の補完とより深い感情移入をする余地を残しています。結果、読者は物語を読み進めながら「この時の芥川龍之介はこう考えるであろう」と考えることになり、あたかも自身が芥川龍之介であるかのような錯覚を生み出すことになります。事実、多くの読者が「引き込まれそうになった」ようです。つまり氏の「キャラクターの記号化」は、「澄江堂主人」において「キャラクターの人格すべてを記号化する」方向へと進化していたと考えられるのです。

 「一杯の珈琲から」における「背景や人格も含めてキャラクターを記号化」もこれと同じと言えます。具体的には、「コーヒーもう一杯」では「どこにでも居そうな人物」であったのに対し、「一杯の珈琲から」では「ある考え方を持った個人」で、同じ記号と言えども、前者は絵空事に思えますが、後者は調査レポートのような、誰かの人生を覗き見ているように思えるのです。

 結果、「一杯の珈琲から」は「コーヒーもう一杯」とは比べ物にならない「人間性の厚み」を表現するに至ったと考えられます。しかしあくまでも「キャラクターは記号」であるので、作者は物語の持つ童話性や寓話性に重きを置いたままです。こうして氏は、既に確立していた「作者は物語を作り、読者はキャラクターを作る」という手法を洗練し、さりげなく読者に自分の意図した人間性を補完させることに成功したと言えます。こうして「物語に重点を置きつつも、人間性を語ることが出来る」という手法は完成し、困難であると思われた「物語性」と「人間性」を両立させるに至ったのです。

 

 …ついついクソ面倒臭い話になってしまいましたが、とどのつまり、本作「一杯の珈琲」からは生々しいまでの「人間」が感じられます。これは「コーヒーもう一杯」ではなかったことです。今後もより色濃く「人間」が描かれていくことでしょう。しかしそれは間違いなく「人間の愛おしさ」なのです。より深みの増した山川作品の世界を、多くの方に味わっていただければと思います。

 

 …しかし、記号化とかなんとか言いつつも、山川氏の描く女性は本当にカワイイんだよな。