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スティーヴン・ミルハウザー 「エドウィン・マルハウス ー あるアメリカ作家の生と死」

スティーヴン・ミルハウザー 「エドウィン・マルハウス ー あるアメリカ作家の生と死」 http://ift.tt/2yDtsVE

 今回はある種偏執的と言える作家、スティーヴン・ミルハウザーエドウィン・マルハウス ー あるアメリカ作家の生と死」をご紹介しようと思います。この作家さんは非常に特殊な文体の方なのですが、それはさておいて、まずはあらすじからご紹介いたしましょう。

 

 

 エドウィン・マルハウス。彼は11歳の若さでアメリカ文学を代表する傑作「まんが」を執筆し、直後、夭折した。隣人であり、同級生であるジェフリー・カートライトは、早くからエドウィンの才能を見抜き、来たるべき時のため、彼の一挙手一投足を記憶していた。これはジェフリー・カートライトによる、アメリカ文学エドウィン・マルハウスの誕生から「まんが」執筆の過程、そして血塗られた死までの全記録、すなわち「伝記」なのである。

 

 

 …つまり、11歳の少年がアメリカ文学史上に残る傑作小説を書き、その一部始終を、やはり11歳の少年が伝記として記した、というのが本作の内容なのです。

 とはいえ、もちろんこれは「伝記の形を借りた小説」でありまして、エドウィンの一生を通じて、誰もが経験する「子供時代」を克明に、時に残酷なまでに描いた作品なのです。

 

 さて、「子供時代」という単語を出しますと、多くの方は「ジュブナイル小説」を思い浮かべると思います。一般的には少年少女達の冒険などを取り上げた作品を指し、古くは「トム・ソーヤーの冒険」や「海底2万里」、日本では「ズッコケ三人組」などがあたり、現在はライトノベルなどがこれにあたるのかもしれません。

 これらジュブナイル小説は奇想天外な設定、あるいは個性豊かなキャラクター群が活躍するものですが、本作はそういう毛色の物ではありません。何故なら本作はあくまでも「伝記」であり、エドウィンという少年は文学作品「まんが」を執筆した以外は、全く平凡な人物だからです。

 つまり本作はエドウィンが過ごしたごく平凡な日常を、徹底的に描写しているだけなのです。しかしこの点にこそ、本作の価値があります。それでは具体的な内容をご紹介しましょう。

 

 本作は筆者であるジェフリーの視点で描かれていますが、物語、というか伝記はジェフリーが初めてエドウィンと出会った時、すなわちジェフリーが生後6ヵ月と3日の時に始まります。驚くべきことですが、ジェフリー曰く「自分は並外れた記憶力を持っている」ため、この時の出会いはもちろん、その後のエドウィンの生涯を全て記憶しているのです。

 エドウィンが生まれて間もない頃、喃語(幼児の単語以前の言葉、『うまうま』や『あーうー』など)を口にしだした頃、やがて正しい言葉を話し、小学校に入学し、学校生活を営む様子、そしてエドウィンが「まんが」執筆に格闘する様子や、完成した「まんが」の内容と詳細な解説が続き、エドウィンの最期までが記されるのです。

 

 これだけなら単なる「成長記録」と言えるでしょう。しかし本作はあまりにも克明なのです。それは本作の(本当の)筆者であるミルハウザーの作風が関係しています。すなわち「状況描写が異常なまでに細かい」ということです。

 例えばエドウィン喃語を話し始めた頃のくだりでは、エドウィン「どのような喃語を話したのか」が延々と羅列されています。またエドウィンの両親が歌って聞かせた童謡や、エドウィンが好んだカートゥーン・アニメの内容、果てはエドウィンが小学校で受けたテストの内容まで記されています。

 加えてエドウィンとジェフリーの他愛のない会話も非常に細かく描写されています。普通の小説でも会話場面はある程度は細かく描写されますが、しかし本作の場合、一言一句はもちろん、2人の身振り手振り、ジェフリーの心象、そして周りの風景までもが恐ろしく細かく記され、おそらく3分程度の会話であろう内容に、3000文字強(文庫本で4ページほど)が費やされているのです。

 

 実は本作がミルハウザーの処女作なのですが、その後もこのような「詳細な記述」を作風としています。超巨大ホテルの隆盛と没落を描いた「マーティン・ドレスラーの夢」、展示品が延々と増え続けていく「バーナム博物館」、精緻な手書きアニメーションを作る男「J・フランクリン・ペインの小さな王国など、どの作品も非常に細かい描写が積み重ねられています。

 しかし、ともすればこのような表現は「くどい」と感じられてしまう恐れがあります。しかしこのミルハウザーの作風は彼の取り扱う題材に非常に適していると言えます。先に挙げた作品は、実はどれも「偏執的」と言えます。増築に増築を重ねるホテル、膨大な展示品が所蔵された美術館、滑らかな動きを追及するため、作画枚数が増え続けるアニメーション…。

 これらがどれほど偏執的なのかを描くには、これらがどれだけ膨大なのか、あるいはどれだけ詳細なのかを描くのが最も効果的と言えます。つまりミルハウザーの作風である「詳細な記述」が最も適していると言えるのです。

 事実、ミルハウザーが用意する舞台、人物、小道具は事細かに描写され、そのため読み手は膨大な量の情報にまさに「押しつぶされ」、作品世界に飲み込まれます。つまり主人公の持つ偏執性を目の当たりにし、圧倒されるのです。これがミルハウザーの作品の魅力であり、真骨頂であります。

 

 本作でもこの作風は健在、というか処女作ですから確立されており、エドウィンの子供時代が事細かに描かれています。したがって、読み手はエドウィンの子供時代に飲み込まれるのです。すなわち、1940年代のアメリカの片田舎の日常、それも子供たちの日常を追体験することになります。

 家庭内でのやりとり、街の風景、学校での様子、登下校の道々、当時の風俗など、舞台はアメリカですが、日本人の一般的な子供時代として読みかえても全く違和感がありません。私の世代では大抵、学校の近くには雑貨屋や駄菓子屋があり、学校帰りにはそこに寄って、よく分からないお菓子やよく分からないおもちゃを買って楽しんだものですが、実際、本作にもエドウィン達が学校近くの雑貨屋でたむろする描写が「事細かに」あります。案外、子供時代の風景とは、万国共通なのかもしれません

 加えて、自立心、自尊心、尊敬、嫉妬、そして恋といった、成長過程における心の変遷も、まさに恥部を抉られるように描写されています。そうです、ここに描かれている子供時代とは、まさに読み手である私達の子供時代そのものと言えるのです。

 ですから本作の読み手は例外なく、本作の中に自分自身を見つけることでしょう。エドウィンの行動や、エドウィンの同級生の誰かに共感を、あるいは「こんなヤツ、いたなぁ」と思いを馳せることになるでしょう。この作品の価値とは、全ての人間の子供時代が詰め込まれている、という点なのです。

 

 しかしながら、本作の魅力はそれだけではありません。先述いたしましたように、ミルハウザーの作品の主人公は、ほぼ全員が偏執的な性格を持っており、その異常とも言える情熱を作品に傾け、やがて社会から取り残される運命にあります。

 では本作の主人公、エドウィンはどうでしょう。確かに彼は11歳にしてアメリカ文学の傑作とも言える「まんが」を執筆しましたが、その制作過程は、精神的に消耗はしましたが、しかし他のミルハウザーの作品の主人公のような強い偏執性は持っていませんでした。ともすれば成長して作家となったなら、その偏執性が顔を出したかもしれませんが、彼は「まんが」1作品だけを残し、夭折してしまいました。

 …もうお分かりでしょう。本作の本当の主人公は誰なのか。実際、本作はエドウィンの一生を詳細に記述したものですが、所々「彼」の独白も混じり、しかもそれらはことごとく「自分がいかに優れているか」を声高に宣言しているのです。この点は、本作の最終盤で顕著になり、最後の1ページで頂点に達し、グロテスクなまでに偏執性がにじみ出ます。この時、読み手はこの伝記の本当の「意味」を考えざるを得なくなるのです。

 

 

 ということで、是非皆様にも一読していただきたいのですが、何しろミルハウザーは先述のような作風で、その上本作は処女作のために文章が今ひとつ整理されていません。つまり最初は非常に読みにくく、とっつきにくいのです。それでもミルハウザーの文体に慣れてくれば、これほど濃密な作品はないと思います。とはいえ、私もこの本を買ったのは5年ほど前で、先日やっと読み終わったんですがね。

 

 

 現在は文庫版が出ているようです。興味を持たれましたら、是非手に取っていただきたいと思います。



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こんな時代だから、ドクターペッパーの話をします。

こんな時代だから、ドクターペッパーの話をします。 http://ift.tt/2gn5Q0u

 健康志向というか「健康のためなら死んでもイイ!」という風の昨今、様々な製品にコレデモカとばかりに「身体に良さげなもの」がズンドコ入っていたり、逆に「身体に悪いもの」はテッテー的に排除されたりしています。やれプリン体カットだ、やれ糖質ゼロだ、やれホウレンソウの2兆倍だ、などなど、本当に「健康のためなら死んでもイイ!」現代人は健康に気を使っているようです。

 で、これらのブツは…、え?なに?きのう、せい、しょくひん?そういう名前なの?へぇ(無表情)。で、その昨日星蝕頻とやらが、スーパーやコンビニ、ドラッグストアやデパート、駅のキヨスクや自販機などで売られていますねこれで我々の健康、精神衛生、安寧秩序は全くスッカリ未来永劫守られている訳です。イヤァ、ありがたいなァ。

 

 …ウソじゃぁあああぁっッ!!そんな温室、無菌室、ぬるま湯の生活なんぞ、願い下げじゃあ!し、しっ、刺激が欲しいんじゃあ!過度な健康崇拝なんぞ、汲み取り便所に流してズゴーッ!健康志向の真逆を行く、人間の本能をグワングワン揺さぶるブツをここでご紹介するわいッ!

 

 まぁ、ドクターペッパーなんですけどね(急に冷める)。当ブログでは事あるごとに登場するドクターペッパーですが、ふと読み返してみますと、「スゴイ臭いがする」など、どう考えても貶めている表現が多々見られましたので、これらの表現が私の(歪んだ)愛の裏返しである表明として、今回は全力でドクターペッパーを語ろうと思います。

 なお、あくまでも「個人の感想 + 偏った思い込み + ひいき目」が含まれていますので、本文は公平性に欠けています。ですから本文を読み、実際にドクターペッパーを飲み、「話が違うじゃねぇか」と言われても、知りません。

 

 さて、そもそも、ドクターペッパーってなんでしょう。ざっくり説明しますと、19世紀のアメリカで、薬剤師が「いろいろ混ぜて」作った炭酸飲料で、ラベルによれば「20種類以上のフルーツフレーバー」と尋常じゃない数の「なにか(原料非公開のため、本当に「なにか」)」が投入された、未来ドリンクであります。

 具体的な味ですが、なにしろ「20種類以上のフルーツフレーバー」のブレンドですから、原形を留めておらず、何が何やら分かりません。ですから「○○味」と表現することも出来ません。ただ脊髄と延髄を「いろいろなかおり」が駆け抜け、けれどもベットリと甘いわけではなく、しかしながら全体としては「モノスゴく力強い味」です。そして飲み込んだ後、鼻からあたかも逆再生のように「いろいろなかおり」が昇ってきて、華やかなフィナーレとなります(いろんな意味で)

 その独特な味と香りは、よくコーラなどの比較されますが、あんなのと一緒にしないでください。確かに少しクセが強いかもしれません。しかし一度トリコになれば、もう忘れようにも思い出せません(副作用)。何気ない毎日が、対向車のハイビームのように輝きだす、それがドクターペッパーなのです。

 それではドクターペッパーがいかにスバラシイ飲み物なのかをお話させてください。

 

 

・肉料理(特にジンギスカン)に合う!

 これだけ強力なテイストですので、クセの強い料理に良く合います。というか、クセの強い料理でないと、ドクターペッパーが遥かに勝ってしまいます。で、クセの強い料理と言えば肉料理、特にジンギスカンはオススメです。

 羊肉が苦手な方は結構多く、その1番の理由が「肉の臭み」であると言います。ですから「毒を以って毒を制す」ということで、ドクターペッパーキャメルクラッチ並のホールド力で、羊肉のクセを消してしまうのです。加えてドクターペッパーは炭酸飲料ですから、ジンギスカンの油っぽさも洗い流してくれます。もっとも羊肉が苦手な人がドクターペッパーの風味を受け付けるとは到底思え

 

・口臭を除去出来る!

 ドクターペッパー自慢の「20種類以上のフルーツフレーバー」はもはや芳香剤、いや防臭剤並の威力があります。この猛威を利用しない手はありません。気になるオクチの臭い消しに役立ちます。

 ニンニク、アルコール、タバコ、納豆、くさや、生のタマネギ、シュールストレミングスなどを食べた後の口臭も、ドクターペッパーなら一発です。フルーツ感溢れる、南国のようなオクチの香りとなっているでしょう、多分。少なくとも私がドクターペッパーを飲んだ時、口臭はバニラの香りを感じますが、バニラはフルーツなのか疑問が残るところです。

 ともあれ、それまで口にしていたモノの香りは全部チャラになっていますので(主観的に)、口臭除去に素晴らしい効果があると言わざるを得ないでしょう(主観的に)

 

・なんかスッキリする!

 え?大抵の炭酸飲料を飲んだらスッキリするって?いいえ!違います!ドクターペッパーを飲んだ後の爽快感、浮遊感、万能感は段違いで、麻雀で言えば四暗刻」と「リーチ・ツモ・対々和」くらいの違いがあります。

 それは「20種類以上のフルーツフレーバー」が織りなす、いわば「認知的迷子」、平たく言えば「オレは一体何を口にしているのだろう」という疑問は、自我、および思考を一旦停止させ、ひいては「無」の境地に至ります(あくまでも上級者の感想です)

 あらゆる因果律から解放され、心身ともにリラックスした状態となり、いわゆる「マインドフルネス」に近い状態であり、そのため覚醒後は非常にスッキリした状態となると言われています(私によれば)。新陳代謝も調整されるせいか、身体がポカポカと温まる効果もあります。まあ、カフェインが入っていますので、それが効いているだけという話も

 

 

 どうです!これがドクターペッパーのポテンシャルなのです!なんてスバラシイ!さぁ、みなさんも飲みたくなってきたでしょう?飲みたくなってきたはずです!しかし、ここで残念なお知らせがあります。それは「思ったよりも、ドクターペッパーは見当たらない」ということです。

 コンビニは?見たことないですね。自販機は?見たことないですね。スーパーは?ドラッグストアは?キヨスクは?見たことないですねぇ。そうなんです、この未来ドリンクはあまりに未来すぎたのか、意外と入手困難なのです。

 え?私ですか?職場の休憩スペースの自販機にありますから。なかなか「分かってる人」が福利厚生を担当しているようです。なので、毎日飲めます。ていうか、毎日飲んでます。毎日快調ですよ(主観的に)

 

 

 ということで、実は身体に良い、えぇ、とても良い、それがドクターペッパーなのです。みなさんも明日からドクターペッパーを始めてみませんか?今から30分以内に始めても、特にオマケは付きませんが、素敵でワンダフルな人生が、あなたを待っていますよ!

 

 

 

 ー おわり ー

 



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映画 「バンド・ワゴン」(1953年)

映画 「バンド・ワゴン」(1953年) http://ift.tt/2zfz85X

 さて、久しぶりに映画のお話をしようと思います。お題は「バンド・ワゴン」というミュージカル映画です。理由は「スローターハウス5」の時と同じです。なんか面白かったから。そして私は「面白ければ監督や俳優が誰だって良いや!」というボンクラなので、むつかしいことは一切ナシにして、「どういう内容で、どう感じたか」だけをお話しします。それほど器用ではないので、フツーにネタバレもしてしまいます。どうぞご了承ください。

 

 それでは「バンド・ワゴン」のあらすじから始めましょう。

 

 

 かつて一世を風靡したミュージカル映画の大スター、トニー・ハント。しかし時代の変化とともに彼の人気は下り坂となり、今や完全に忘れ去られた存在となっていた。そんな時、友人で脚本家であるレスターとリリー夫妻に誘われ、ニューヨークを訪れる。レスターによれば、ハントを主役とした歌とダンスが盛り沢山の舞台「バンド・ワゴン」を書き上げたというのだ。

 しかし自分の人気をよく知るハントは気乗りしない。そこで今回の舞台演出を依頼している演出家コルドバの舞台を見て、本人にも会ってみてほしいと頼まれる。渋々ながらハントはコルドバ演出の舞台を見るが、エンタテインメントとは程遠い哲学的で高尚な舞台で、ハントは嫌な予感しかしない。

 そしてコルドバ本人に会ってみると、コルドバは歌とダンスの「バンド・ワゴン」を現代版「ファウスト」として作り直し、ハントを改めてブロードウェイに売り出そうと張り切る。ハントら3人はガッカリするが、徐々にコルドバの熱っぽい演説に心を奪われ、コルドバの翻案に乗ることになった。

 コルドバはハントの相手役としてバレエ界の新星、ガブリエル嬢を抜擢。しかし2人の第一印象は最悪。互いにギスギスした空気が漂い、やがて他の役者や舞台のリハーサルにも暗雲が漂い始める。

 果たして舞台「バンド・ワゴン」は無事に開演出来るのだろうか…?

 

 

 某タモリさんも「劇中に急に歌いだす所に違和感を感じる」と言っていたように、私もミュージカル映画はちょっと苦手でした。ですからミュージカル映画で見たことがあるのは「サウンド・オブ・ミュージック」と「雨に唄えば」くらいでして、つまりミュージカル映画の文法や作法などはちっともさっぱり分かりません。

 しかし本作「バンド・ワゴン」はそんなズブの素人の私でも手放しで「面白れぇな、コレ」と思いました。なんでじゃろ、と考えてみますと、実に単純な理由が思い浮かびました。すなわち、

 

 

「ミュージカルの制作現場が舞台」というミュージカル映画だから

 

 

 ということなのです。

 

 

 舞台「バンド・ワゴン」を作るため、ハントはコルドバやガブリエルと会うことになりますが、そのために彼らの舞台を見に行くことになります。いわゆる劇中劇です。劇中劇とは「ある舞台の中で別の舞台が演じられる」という入れ子構造のヤツです。どの劇中劇も歌が入る劇という位置づけですので、無理なく歌う必然性がもたらされています。また物語の終盤では完成した舞台「バンド・ワゴン」が演じられ、ここでも劇中劇として歌とダンスが披露され、やはり歌う必然性がもたらされています。

 加えて、本作のメインは「ミュージカルを作る過程」なので、当然リハーサル等で歌う場面があります。また舞台がハネたあとの打ち上げで、酒を飲み、大盛り上がりの中で歌いだす、というシチュエーションも全く不自然ではありません。どちらも自然と歌うシーンに繋がっていくので、これはとても上手い設定だと思います。

 つまり本作におけるミュージカルシーンの多くは「歌う必要がある場面」で行われるため、違和感を感じにくくなっていると思われます。これが本作の巧妙さであると言えましょう。

 

 とはいえ、劇中ではやはり唐突に歌が始まる場面もあります。冒頭、すっかり忘れ去られたハントが自嘲気味に歌う場面や、コルドバの舞台を見に行く前の気乗りしない気分を歌う場面がありますが、確かに急に歌って踊りだすので、違和感があるといえばあります。こればかりはミュージカル映画の文法ということなのでしょう。しかし本作にはこの点を全てチャラにする要素があります。

 

 それは「歌とダンスが最高水準であること」です。ミュージカル映画なのですから、歌と踊りが高水準であることは当たり前なのですが、しかしズブの素人の私の目から見ても、本作のミュージカルシーンのレベルは恐ろしく高いのです。

 先のコルドバの舞台を見に行く前、ハントは盛り場で靴磨きとともに軽快な歌とダンスを繰り広げます。急に歌って踊りだしたので、正直「おいおい、どうした?」と若干引きましたが、すぐにハントと靴磨きの愉快なパフォーマンスに引き込まれてしまいました。

 靴磨き用の椅子やブラシ、それに周りに設置されたきらびやかなゲームマシンも相まって、ハントのブルーな気持ちがみるみる明るく、前向きに変わっていく様がダンスのキレに反映されていきます。この2人の動きのシャープさ、コミカルさ、そして素晴らしいテクニックは、私の目をたちまち釘づけにしてしまい、先の違和感は全く吹き飛んでしまいました。

 

 またハントがヒロインであるガブリエルと仲違いした時、2人は互いの気持ちを吐き出します。これによって誤解が解けるのですが、しかし2人の空気はまだぎこちないのです。そこでハントはガブリエルを誘って夜の公園に向かい、前置きなしに2人は踊り始めます。

 確かにこの場面だけを抜き出すと、唐突にミュージカルシーンが始まったように見えます。しかし話し合いで和解したとはいえ、まだぎこちない彼らにとって、ダンスこそがお互いを理解し合う最高の言葉だったように思えます。

 2人はトップレベルのエンタテイナーです。ですからこの場面において、もはや彼らには話す言葉はなく、あとは「エンタテイナー同士が互いの実力を確かめ合い、認め合う」ことだけだったのでしょう。そして2人はセッションを通して、協力することで新しい舞台を作り上げることが出来ることを悟るのです。

 「時代遅れのミュージカルスター」と「最先端のバレエダンサー」が寄り添うように踊る。それはとても華麗で、上品で、エネルギッシュで、情熱的です。この場面は本作最高のシーンであり、観客にとって最高に贅沢な時間となります。それほどこのシーンのダンスは見事としか言いようがありません。

 

 

 結局、「バンド・ワゴン」は最高のエンタテインメントであった、という、至極単純な話です。全編を見終わった後、私はこれまで感じたことのない満足感を覚えていました。と同時に、現在のCG多様の映画について考えました。

 CGを駆使した映像美はリアルでモノスゴイものです。しかし本作の人間の肉体の美しさとは次元が違うように思えました。どう違うのか、上手く言葉に出来ません。どうやら最高級のモノというのは、修飾語の意味を無くしてしまうもののようで、どんなに言葉を紡いでも、決してその作品の素晴らしさを伝えることが出来ない、むしろ語れば語るほど、作品の輝きからかけ離れてしまうように思えます。

 

 

 ただこれだけは言えます。現代のCGを駆使した映画は「スゴイモノを見た」、本作は「素晴らしいモノを見た」である、と。

 

 

 

 ということで、私の感想もここまでといたしましょう。皆様にも機会があれば、是非ご覧いただきたいと思います。



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Eテレ 「びじゅチューン!」

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 今回は珍しくテレビ番組のご紹介をしたいと思います。私はほとんどテレビは見ませんが、NHK、特に教育、つまりEテレは録画を欠かさないほど見ています。

 というのも、以前「デザインあ」をご紹介した時もお話ししましたが、どうも「Eテレ」というのは公共放送のクセにトンガったことをしでかす放送局らしく、それというもの、みんな大好きピタゴラスイッチが放送開始になった頃から、何かに憑りつかれたように実験的な、もっと言えば前衛的な番組が増え始めました。そしてそれらが、いかにも「教育」という匂いを感じさせず、フツーに見ていて面白いから困ったものです。

 ということで、以前、私はこの場で「デザインあ」「考えるカラス」などをご紹介をさせてもらったのです。で、今回ご紹介したいのは「びじゅチューン!」という芸術番組であります。とはいえ、この番組が始まったのは2014年のことで、正直「何をいまさら」という方も多いでしょうが、先日の放送を見ていて「あ、オレ、これの紹介してない、紹介したい。」思い立ったが吉日なので、少々お付き合い下さいませ。

 

 さて「びじゅチューン!」は芸術番組と言いましたが、正確には「歌番組」です。というのは、毎回、世界的にチョー有名な美術作品を取り上げ、それを「独自に」解釈した歌とアニメーションを流す、という内容だからです。あ、NHKということで「みんなのうた」のような牧歌的なモノを思い浮かべてませんか?いやいや、そんな平和な代物ではありません。この点を説明するために、まずはこちらの動画をご覧いただきたいとも思います。

 

 

 ~ マチルダ先輩 ~

 

 

 …この作品を作った方が井上涼さんというアーチストの方で、作詞も、作曲も、歌も、アニメーションも、全部やってます。で、え~と、こんなのばっか作ってます。そう、どうかしている人です(褒めてますよ)。この方が世界的にチョー有名な美術作品をテーマに、1分半ほどの歌とアニメーションを作るというのです…。もうイヤな予感しかしません!(良い意味ですよ)

 

 では、これまで取り上げられた作品と、井上さんがどのような解釈をしたかをちょっとだけご紹介しましょう。

 

 

風神雷神図屏風:一面の金箔をバックに、風神と雷神が勇ましく飛び回っている場面を描いている

 井上解釈:風神と雷神の2人が待ち合わせ場所に駆けつけたように見えたので、2人のデートの歌にした

 出来た歌:風神雷神図屏風デート

 

鳥獣人物戯画:ウサギやカエルを擬人化し、人間社会の滑稽さを描いている

 井上解釈:相撲や水泳をしている場面を見て、「これはスポーツジムだな」と思った

 出来た歌:鳥獣戯画ジム

 

真珠の耳飾りの少女:青いターバンに真珠の耳飾りをした少女の姿を描いている

 井上解釈:黒い背景、青いターバンと、ミステリアスな雰囲気から、「彼女は忍者ではないのか?」と思った

 出来た歌:真珠の耳飾りのくノ一

 

・小面:能で使われる面で、若い娘を表している

 井上解釈:小面には「箱入り娘」という意味合いもあるため、引っ込み思案な女の子が思い浮かんだ

 出来た歌:小面の休日

 

 

 …頭のどこを使うとこういう発想が出来るんでしょう。曲調も実に様々で、アップテンポの楽しげな曲から、バラードでメロウな曲まで、実に幅広く作曲していますし、アニメーションのテイストも作品によって変えています。この才能、本当にうらやましい限りです。

 しかし、ご覧いただいてお分かりのように、正直、井上さんは歌が特別上手いワケではありませんし、絵も飛びぬけて上手なワケでもありません。なのに、なんでしょうね、この中毒性は。

 井上さんのどこかヌケた歌声とヘタウマと言って良いのか分からない絵が合わさると、猛烈な化学反応により、強烈に脳髄に刻み込まれ、遥か彼方へと魂を持って行かれてしまいます。まさに「奴はとんでもないものを盗んでいきました」というわけです。しかもこの番組は5分番組ですので、奇天烈な歌とアニメーションに呆然としているうちに番組は終わってしまい、あたかも白昼夢を見ていたかのような「ファンタジー感(あるいはキツネにつままれた感)」を味わうことが出来ます。

 

 ということで、皆様にも一度はご覧いただきたいと思います。が、放送時間は毎週火曜日19時50分という、これまたビミョーな時間帯ですので、ここは手っ取り早く公式サイトに飛んでいただきたいと思います。こちらでは過去に放送された全て作品が見られますし、作品についてのカンタンな(本当にカンタンな)解説もありますので、こちらで飽きるまで試聴していただきたいと思います。でもきっと飽きません。

 なお、いずれかの作品が頭から離れず、日常生活に支障をきたす場合も考えられますが、そこは「自己責任(便利な言葉)」でお願いいたします。かくいう私も既に支障をきたしており、仕事中に急に頭の中で楽曲、およびアニメーションが再生され、ヤケに効率が上がったり、その逆もあったりしてますが、私は元気です。

 

 

 今回は以上!みんな見てね!



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とよ田みのる 「友達100人できるかな」

とよ田みのる 「友達100人できるかなhttp://ift.tt/2g7xZFM

 今回ご紹介する作品はとよ田みのる先生の「友達100人できるかなであります。思えば熱帯雨林の導きによって「FLIP-FLAP」と出会って以来、私はとよ田先生を追いかけています。「タケヲちゃん物怪録」、「CATCH & THROW」、「ラブロマ」と来まして、どれもこれも面白く、「この人の作品にはハズレがないのか?」と戦慄しておりました。

 そしてこの度、「友達100人できるかな」を読み終えました。いやぁ、震えました!どうかしています、この人は!(もちろん褒めてますよ)これは感想を書こう!書きたい!いや、書かせてください!ということで、書かせてください。それでは物語の冒頭からお話ししましょう。

 

 

 2009年。小学校教諭である柏直行(かしわなおゆき)は、妻である幸代が出産のため入院したということで、慌てて病院に駆けつける。つわりが酷かっただけと聞き、安心する直行であったが、ベットの横は見慣れぬ人影がいた。彼(彼女?)は自分は宇宙人であり、間もなく地球侵攻が開始される旨を告げる。

 しかしこの侵攻には条件があった。対象となる星に相互に友好的なコミュニケーションを行っている生命体、つまり「愛」を持った生命体がいるのならば、それらは文明を持った知的生命体であると判断され、侵攻は出来ないのだという。

 そしてこの星を代表する生命体である人類が愛を持つ存在であるかどうかをテストするため、サンプルに選ばれたのが直行なのであった。直行は病院の屋上に連れて行かれ、UFOの輝きを目にして気を失う。

 目を覚ますと、直行の体は小学3年生の頃の姿に戻っており、外には1980年の東京が広がっていた。宇宙人によれば、ここはパラレルワールドの1980年の東京であり、この世界で愛を立証するために、小学校卒業までの間に100人の友達を作らなければならないという。

 直行は友達になりたい相手にセットすると、互いの親愛度が分かる「カウンター」を与えられる。互いの親愛度が100%になった時、友達と認められるのだ。宇宙人は同年代の女の子の姿に擬態、道明寺さくらを名乗り、直行のテストの監視のため学校に通うという。

 友達100人で人類は救われ、出来なかったら人類滅亡。1980年の東京を舞台に、人類の命運を賭けた友達作りが始まった…!

 

 

 …スゴイ設定ですね。さすがとよ田先生、毎回毎回奇想天外な舞台設定をしてくれますね。さて、本作は1話完結形式で、毎回直行が友達作りに奮闘する姿が描かれています。「友達を作るだけだろ?」と侮るなかれ、これがまた、毎回深いドラマを繰り広げているのです。

 というのは、友達作りには宇宙人が設定したルールがあるからです。すなわち、

 

・友達成立した後、一か月以内に次の相手にセットしないと失格になる

 

 「失格=人類滅亡」ですから、次々と相手を見つけてセットしなければならず、したがって自分と同じような性格や趣味を持った相手ばかりを選んでいる時間はないのです。つまり直行は自分とは正反対の性格の相手と友達になる必要もあり、あるいは異性とも友達になる必要に迫られているのです。

 これにより、直行は様々な性格の人達と交流することになります。外交的な人、内向的な人、活動的な人、のんびりした人…。すなわち「多様な価値観」です。小学校教諭として指導する立場であった直行は、規律を重んじるが故に、少々融通の利かない性格でしたが、多くの個性に触れることで、多角的なモノの見方を獲得し、柔軟な心を取り戻していきます。

 

 しかし小学3年生に戻ったとはいえ、頭の中は元の大人のままですから、ついつい「大人が子供を相手にする時」の対応をしてしまいます。ここで友達作りのもう1つルールが効いてくるのです。それは、

 

・どちらかの親愛度が0%になった場合、失格となる

 

 つまり、いくらこちらが好意を抱いていても、相手から嫌われてしまったらオシマイなのです。直行の場合、先の大人による「上から目線」や大人な物の考え方がネックになることが多々あります。しかしながらこのルールにより、直行は同じ子供として相手とガチで組み合わなければ距離が開く一方であること悟り、その結果「相手の立場になって考える」ことの大切さを知り、「自分の本心をさらけ出す」ことの重要さを知ることになるのです。

 ですから、この物語は「友達になるってなんだろう?」という問いを投げかけていますが、同時に「大人とはこういう頭のカタイ生き物だ」と皮肉を込めているようにも思えます。

 実際、本作を読み始めた頃の私は、直行同様に「こうすれば上手くいくんじゃなかろうか」と理屈っぽく考えていました。しかし物語が進むにつれ、直行同様にそのような理屈が「全くムダ」であることを思い知らされるや、1巻冒頭を読んでいた自分がいかに「ワケ知り顔のオトナ」になっちゃっていたのかを痛感させられ、「歳とったな…。」と何故だか敗北感を感じたのでした。

 

 ということで、本作は以前にご紹介した「FLIP-FLAP」や「タケヲちゃん物怪録」と同様に、おそらくとよ田先生のライフワークであろう「他者との関係性」について掘り下げた作品であると言えるでしょう。しかし先述の2作品との決定的な違いは「登場人物の心をとてつもなく深く描いている」という点であります。

 それは直行が友達になる子供たちの、その多種多様なキャラ造形の素晴らしさにあります。最初は「そういえば昔、こんな感じの子、いたな…。」みたいな、ある意味「子供」に対するテンプレートでステレオタイプな印象を受けますが、しかし物語が進み、直行との交流が深まるにつれ、どの子達も多感で複雑な心を、そして小さな胸を痛める悩みを持っていることが分かります。それにがっちりと組み合う直行の姿はスピード感あふれる作画によって描かれ、もはや「子供同士の友達作り」ではなく、本音と感情が強くぶつかり合う激しさを持った、フルコンタクトの格闘技を思わせるのです。

 そこへもってきて、とよ田先生の真骨頂である「聞いていて(読んでいて)こっ恥ずかしくなるようなセリフ」のオンパレードです。「他者との関係性」という、いわば人間社会の持つ普遍的なテーマでありながら、怒涛のような「熱いセリフ」と「光速の作画」によって全く小難しさを感じず、読む者の心のど真ん中を射抜いてくるのです。

 

 また本作はSF(とよ田先生は藤子不二雄先生の大ファンらしいので、この場合は「すこしふしぎ」)としての設定もしっかりとしており、特に直行のテスト会場が「パラレルワールドの1980年」であるという点が秀逸です。おそらく過去を変えて2009年現在が変わってしまうことを防ぐためなのですが、しかし、この「パラレルワールドの1980年」という設定が、物語全体を通して非常に重要な意味を持っており、特に…、いやネタバレになるからやめます。とにかく、いや、本当に良く出来ています。

 

 現在はKindle版が入手出来ますが…。え?タダなの?おいおい、こんなスゲェ作品、タダって日本の出版界は大丈夫なのかしら。ともあれ、お気軽に読めますので、是非ご一読していただければと思います。

 

 

 

 さて、本作を読み終わり、真っ先に私が頭に思い浮かべたのは、ネットに溢れるSNSの数々でした。本作を読み終えた後では、これらがなんとも心許ないものに感じました。もちろん、これらのツールを否定するつもりはありませんが、次に思い浮かんだのは、宇宙人である道明寺さんの言葉でした。今回はこのセリフで締めたいと思います。

 

 

 「ナント不器用な人達なのでショウ」

 



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